『雨のモンマルトル、午後九時』

坂道は、雨の日になると少しだけ正直になる。

滑りやすくて、息が切れて、

「無理して登らなくていいよ」と言っているみたいだ。

私は傘をたたんで、

アパルトマンの角の小さなビストロに入った。

失恋帰りだった。

ドラマみたいな別れじゃない。

ただ、もう頑張る気力が残っていなかっただけ。

カウンターに座ると、

若いウェイターが赤ワインを置いた。

「重たい日?」

私は少し考えてから答えた。

「長かった日」

外では、石畳に雨が当たって、

小さな拍手みたいな音を立てている。

私はパンをちぎって、何も考えずに噛んだ。

こういう時、人は未来じゃなくて、

“今ちゃんと生きているか”を確認したいだけだ。

ワインを一口。

胸の奥に、ゆっくり熱が降りていく。

彼の顔が浮かんだ。

優しかったところ。

ずるかったところ。

全部混ざって、もう分類できない。

私はグラスを見つめながら思った。

恋が終わると、

世界が終わったみたいな顔になるけど、

パリは今日も普通に雨を降らせている。

それが、少し救いだった。

会計をして外に出ると、

街灯の光が水たまりに伸びていた。

私は坂をゆっくり下りながら、

初めてその日、ちゃんと息をした。

失恋は終わりじゃなくて、

体力の回復期間だ。

そう思えた夜だった。

――おしまい――

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